日本の歴史に刻まれた地震のなかで、最大級とされるものをご存じでしょうか。1707年(宝永4年)の宝永地震です。マグニチュードはおよそ8.6。東海から四国まで、南海トラフがほぼ同時に動いたと推定され、死者は全体で約2万人にのぼったと伝わります。しかもこの49日後には、富士山までもが火を噴きました。日本列島が連鎖的に揺れ動いた、忘れがたい年です。
宝永地震とは?南海トラフがほぼ全域で動いた巨大地震
宝永地震が起きたのは、宝永4年10月4日(新暦1707年10月28日)の午後2時頃。震源域は遠州灘から四国の沖合に広がり、南海トラフのほぼ全域でプレート境界の断層が一気に破壊されたと考えられています。東海地震と南海地震が同時に発生したような、桁外れの規模でした。
被害は西日本から東海地方まで広範囲に及び、潰れた家は約6万棟、死者は南海トラフ全体で約2万人と推定されています。江戸時代に起きた地震のなかでも、もっとも広く、もっとも多様な被害をもたらした地震。それが宝永地震です。
えっ、東海と南海が同時って…そんなことが起こり得るのですか?
めったにないことですが、過去にゼロではありません。だからこそ宝永地震は、いま懸念される南海トラフ巨大地震を考えるうえで、もっとも重要な手がかりのひとつとされているのです。
宝永地震のマグニチュードと規模|なぜ「最大級」なのか
宝永地震の規模はマグニチュード8.6と推定されています。これは、のちに同じ南海トラフで起きた安政東海・南海地震(1854年・M8.4)や、昭和東南海地震(1944年・M7.9)をも上回る数字です。江戸時代の人々が体験した地震のなかで、文字どおり最大級でした。
マグニチュードは1増えるとエネルギーが約32倍になります。M8.6がどれほど途方もないか、想像するだけで足がすくむほど。震源域が東西におよそ600kmも連なったとされ、揺れと津波が広い範囲を同時に襲ったことが、被害を一気に押し広げました。
補足しますと、南海トラフはおよそ100〜200年の間隔で巨大地震を繰り返してきたのですよ。
宝永地震の津波被害|高知を襲った波高5〜8メートル

宝永地震の被害をいっそう深刻にしたのが、揺れの直後に押し寄せた津波です。とりわけ高知県(土佐)の沿岸では推定波高5〜8メートルに達し、死者1,844人・行方不明926人という大きな犠牲が出ました。潰れた家は約5千棟、流された家は約1万2千棟にのぼります。
津波は土佐だけでなく、紀伊半島から九州、さらには房総半島の沿岸まで記録されています。海沿いの村が、波にさらわれ跡形もなくなった例も少なくありません。揺れを生き延びても、そのあとに来る海が命を奪う。津波の恐ろしさが、各地の古文書に生々しく刻まれています。
波の高さ8メートルって…逃げる時間もなかったのではないでしょうか
宝永地震が動かした大地|室戸岬の隆起と地盤変動
宝永地震は、海岸線そのものを変えてしまうほどの力を持っていました。高知県の室戸岬はおよそ1.5メートルも隆起し、逆に高知市の西隣では最大2メートルも地盤が沈下したと記録されています。土地が持ち上がり、別の土地が沈む。プレートの巨大なひずみが一瞬で解放された証です。
沈んだ土地では田畑や家が水につかり、長く人々を苦しめました。地震の被害は、揺れと津波が去ったあとも、変わってしまった大地として残り続けたのです。自然の前で、人の営みがいかに小さいか。宝永地震は、それを地形ごと突きつけました。
宝永地震の49日後に富士山が噴火した
宝永地震を語るうえで欠かせないのが、その49日後に起きた富士山宝永噴火です。1707年12月16日、富士山の南東斜面が大噴火し、江戸にまで火山灰を降らせました。この降灰は、地震の年(亥年)にちなんで「亥の砂降り」とも呼ばれています。
巨大地震のあと、わずか1か月半で富士山が火を噴く。専門家のあいだでは、地震が地下のマグマを刺激した可能性も指摘されています。地震・津波・噴火が立て続けに襲った宝永4年は、日本列島の不気味な連動を後世に伝える、忘れてはならない一年となりました。
宝永地震が現代に残す教訓・防災への学び
宝永地震がいま私たちに突きつけるのは、「南海トラフはまた必ず動く」という現実です。政府も、今後数十年のうちに南海トラフ巨大地震が起きる可能性が高いと警告しています。300年前の宝永地震は、その最悪のシナリオを実際に見せてくれた前例なのです。
- 海の近くにいるときの避難先・避難経路を、家族で前もって決めておく
- 強い揺れや長い揺れを感じたら、警報を待たずに高い場所へ移動する
- 家具の固定・数日分の備蓄など、揺れと停電の長期化に備える
地震・津波・噴火が連鎖した宝永4年は、決して「昔話」ではありません。同じ南海トラフが、いつか再び牙をむく日が来ます。過去の記録を知ることが、未来の被害を小さくする第一歩になるはずです。
宝永地震はいつ起きたのですか?
宝永4年10月4日、新暦では1707年10月28日の午後2時頃です。南海トラフのほぼ全域が動いた、江戸時代最大級の巨大地震でした。
宝永地震の死者数はどれくらいですか?
南海トラフ全体で約2万人と推定されています。とくに高知県では津波で死者1,844人・行方不明926人という大きな被害が出ました。
宝永地震と富士山の噴火は関係があるのですか?
宝永地震の49日後に富士山宝永噴火が起きています。巨大地震が地下のマグマを刺激した可能性が指摘されており、地震と噴火の連動を考える重要な事例です。
まとめ|宝永地震が伝える南海トラフの脅威
宝永地震は、南海トラフのほぼ全域が動いたM8.6の巨大地震で、約2万人の命を奪い、49日後の富士山噴火まで呼び起こしました。地震・津波・噴火が連鎖した1707年は、日本列島の災害が決して単発ではないことを教えてくれます。
同じ南海トラフは、これからも必ず動きます。300年前の記録を「次への備え」に変えること。それが、宝永地震を学ぶいちばんの意味なのだと思います。関連する災害の記事も、ぜひあわせてご覧ください。