地球の裏側で起きた火山の噴火が、東北の村々を飢えさせた——そんな出来事が、江戸時代に実際にありました。天明の大飢饉です。1782年から数年にわたり、浅間山の噴火やアイスランドの火山噴火が重なって世界的な冷害が起き、各地で米が実りませんでした。餓死者は弘前藩だけで数万人、全国では数十万人にのぼったとも伝えられます。江戸時代最大級の飢饉でした。
天明の大飢饉とは?江戸三大飢饉の一つ
天明の大飢饉は、天明年間(1781〜1789年)に起きた大規模な飢饉です。とくに被害が深刻だったのは1782年から1788年ごろで、奥州(東北地方)を中心に、被害は全国へと広がりました。享保・天保の飢饉とあわせて江戸三大飢饉の一つに数えられます。
飢饉とは、天候不順などで作物が実らず、食べ物が極端に不足して多くの人が飢える災害です。現代では災害というと地震や台風を思い浮かべますが、農業が暮らしの土台だった時代、凶作は人々の命を直接おびやかす最大級の脅威でした。天明の大飢饉は、その恐ろしさを象徴する出来事です。
補足しますと、当時は冷蔵も流通も未発達で、一つの地域の凶作を他の地域がすぐに補えませんでした。それが被害を深刻にした背景にあるのですよ。
天明の大飢饉の原因|浅間山と地球規模の冷害
飢饉の引き金は、いくつもの異変が重なったことでした。1783年(天明3年)、日本では春に岩木山、夏には浅間山が大噴火します。火山灰が田畑を覆い、噴煙が日ざしをさえぎりました。同じ年、はるか遠いアイスランドでもラキ火山が巨大噴火を起こしていました。
火山が噴き上げた大量のちりやガスは、地球の北半球を覆い、地上に届く太陽の光を弱めました。その結果、世界的に気温が下がる冷害が発生します。日本でも冷夏と長雨が続き、稲が育たずに凶作となりました。火山と異常気象が連鎖して、地球規模で起きた飢饉だったのです。
えっ、アイスランドの噴火が日本の飢饉に…?火山の力は、そんなに遠くまで届くのですね。
天明の大飢饉の被害|奥州を襲った飢え

もっとも深刻な被害を受けたのが、奥州の北部でした。冷害に弱い地域だったうえに凶作が重なり、人々は食べるものを失っていきます。弘前藩(現在の青森県)では餓死者が数万人にのぼり、一説には十数万人とも伝えられます。盛岡藩でも多くの命が失われました。
飢えと、それに伴って広がった疫病が、村々から人を奪っていきました。あまりの惨状に、当時の記録には目を背けたくなるような描写も残されています。一つひとつの数字の向こうに、確かに生きていた人々の暮らしと無念があった。その重さは、決して茶化してよいものではありません。
食べ物がないというだけで、これほど多くの命が…言葉になりませんね。
天明の大飢饉と打ちこわし|揺らぐ幕府
飢饉は、社会そのものを揺さぶりました。米が不足して値段が跳ね上がると、買い占めをした商人などに人々の怒りが向かいます。1787年(天明7年)には、江戸や大坂をはじめ各地で打ちこわしが頻発しました。米問屋などが襲われ、都市の秩序が大きく乱れたのです。
飢饉は農村だけの問題ではなく、都市の暮らしも直撃しました。食べ物が行き渡らないという一点が、社会のあちこちにひびを入れていったのです。災害が政治や経済を揺さぶる構図は、現代の私たちにとっても他人事ではありません。
天明の大飢饉が変えた政治|寛政の改革へ
たび重なる飢饉と打ちこわしは、幕府の政治を動かしました。当時実権を握っていた老中・田沼意次は批判を浴びて失脚し、代わって松平定信が登場します。定信が進めた寛政の改革では、飢饉に備えて米をたくわえる「囲い米」などの対策が取られました。
飢饉という災害が、政権交代と政策転換を引き起こしたのです。「いざというときのために備蓄する」という考え方が制度として意識されたのも、たび重なる飢饉の痛い教訓からでした。災害は、社会の仕組みを変える力を持っている。天明の大飢饉は、その典型例といえます。
天明の大飢饉が現代に残す教訓・防災への学び
天明の大飢饉の教訓は、食べ物が豊富に見える現代にも通じます。火山の大噴火や異常気象は、いまも世界の食料生産を揺るがす可能性があること。そして、食料の備えと、地域や国を越えた助け合いが、危機を乗り越える鍵になることです。
- 家庭でも数日〜1週間分の食料・水を備蓄しておく(ローリングストック)
- 大規模噴火が世界の気候・食料に影響しうることを知っておく
- 災害は地震や台風だけでないこと(飢饉・冷害も災害)を理解する
飢饉は、過去の歴史にしか起こらないものではありません。現代でも、気候変動が農業に影を落としています。だからこそ、先人が飢えと向き合った記録から学ぶ意味がある。天明の大飢饉の教訓を、未来の備えに変えていきたいものです。
天明の大飢饉はいつ起きたのですか?
天明年間(1781〜1789年)に起きた飢饉で、とくに1782年から1788年ごろの被害が深刻でした。1783年の浅間山などの噴火と冷害が重なったことが大きな引き金になりました。
天明の大飢饉の死者数はどれくらいですか?
正確な数は分かっていませんが、弘前藩だけで餓死者が数万人(十数万人とも)にのぼり、全国では数十万人が亡くなったとも伝えられます。史料により数字に幅があります。
天明の大飢饉の原因は何ですか?
1783年の浅間山やアイスランド・ラキ火山などの大噴火で、火山灰や噴煙が日ざしをさえぎり、世界的な冷害が発生したためです。日本でも冷夏と長雨が続き、深刻な凶作となりました。
まとめ|天明の大飢饉が伝える「食」の脆さ
天明の大飢饉は、浅間山やアイスランドの火山噴火が招いた地球規模の冷害によって、奥州を中心に数十万人ともいわれる命を奪った江戸時代最大級の飢饉でした。火山と異常気象の連鎖、深刻な凶作、そして打ちこわしや政権交代まで。災害が社会全体を揺さぶることを、まざまざと示しています。
豊かに見える現代の食卓も、気候や自然の変化と無縁ではありません。だからこそ、食料の備蓄や助け合いの大切さを、先人の経験から学んでおきたいものです。災害は地震や台風だけではない——天明の大飢饉は、その視野を広げてくれます。同じ近世の災害の記事も、あわせてご覧ください。