昭和三陸地震とは|深夜の三陸を襲った大津波と田老の悲劇

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昭和三陸地震とは|深夜の三陸を襲った大津波と田老の悲劇

揺れは、それほど激しくありませんでした。だからこそ、悲劇は深まったのです。1933年3月3日の午前2時半すぎ、人々が寝静まる深夜に発生した昭和三陸地震。マグニチュードは8.1にもかかわらず、内陸で感じた揺れは震度5ほど。「この程度なら」と油断したわずか30分後、最大28.7メートルの大津波が三陸沿岸をのみ込みました。死者・行方不明者は3,064人。その37年前にも、同じ海岸は大津波に襲われていたのです。

昭和三陸地震とは?深夜の三陸を襲ったM8.1

昭和三陸地震は、1933年(昭和8年)3月3日の午前2時30分ごろ、岩手県の釜石町から東へ約200キロ離れた三陸沖で発生した地震です。規模はマグニチュード8.1(気象庁推定。アメリカ地質調査所はMw8.4とする説もあります)。震源が陸から遠い海の沖だったため、東北の太平洋側で感じた揺れは震度5程度にとどまりました。

ところが、海の中では桁違いの変動が起きていました。地震からおよそ30分後、巨大な津波が三陸の入り江を次々と襲います。最大の遡上高は、岩手県の綾里(りょうり、現在の大船渡市)で28.7メートル。深夜の暗闇のなか、逃げる間もなく多くの集落が波に消えました。流出した家屋は4,000戸を超えています。

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揺れが小さかったのに、これほどの津波が来たのですね。深夜というのも、避難をいっそう難しくしたのでしょうね。

なぜ揺れは小さいのに大津波が?|アウターライズ地震

なぜ揺れは小さいのに大津波が?|アウターライズ地震

昭和三陸地震の大きな特徴は、アウターライズ地震と呼ばれるタイプだったことです。これは、海溝のさらに外側(海側)の、プレートが曲がって盛り上がった場所で起こる地震を指します。プレートどうしが押し合う境界で起きる一般的な海溝型地震とは、しくみが少し違うのです。

アウターライズ地震は、地面が引き裂かれるように割れる「正断層型」で起こります。海底が急な角度でストンと落ち込むため、その上の海水が大きく持ち上げられ、規模の割に大きな津波を生みやすいのです。揺れが穏やかでも油断できないのは、このためでした。しかもこの地震は、37年前の明治三陸地震が引き金になって起きた可能性が指摘されています。

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補足しますと、揺れの大きさと津波の高さは必ずしも一致しません。「あまり揺れなかったから大丈夫」という思い込みこそ、津波では危険なのです。

明治三陸からわずか37年|繰り返された三陸の悲劇

三陸の人々にとって、これは初めての大津波ではありませんでした。1896年の明治三陸地震津波で、同じ海岸は2万人を超える犠牲者を出していたのです。それからわずか37年。当時を知る人がまだ多く生きているうちに、海は再び牙をむきました。

とりわけ被害が集中したのが、岩手県の田老(たろう)村です。全362戸のうち358戸が流失し、人口の4割以上にあたる792人が命を落としました。村はほぼ消滅したのです。明治の悲劇を生き延びた土地が、ふたたび壊滅する。この繰り返しが、人々に「いかにして津波から村を守るか」という重い問いを突きつけました。

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同じ海岸が、37年でまた大津波に…。生き延びた方々の悲しみは、どれほど深かったことでしょう。

田老の「万里の長城」|防潮堤に託した願い

壊滅した田老村が出した答えが、巨大な防潮堤でした。1934年に着工し、長い年月をかけて1966年に完成した堤防は、X字に組み合わさった二重構造で、総延長2,433メートル、高さ10メートル。村をぐるりと囲うその姿から、「万里の長城」と呼ばれました。世界的にも例の少ない、津波と向き合う決意の象徴です。

1960年のチリ地震津波では、三陸の各地が被害を受けるなか、田老に迫った波は防潮堤に届かず、村は守られました。堤防は確かに、人々の命を救ったのです。しかし2011年の東日本大震災では、想定をはるかに超える津波が約500メートルにわたって防潮堤を破壊し、田老地区では住民約4,400人のうち、およそ200人が犠牲になりました。「壁があるから大丈夫」という安心が、避難を遅らせた面も指摘されています。守る備えと、逃げる備え。その両方が要ることを、田老の歩みは教えてくれます。

昭和三陸地震の教訓・防災への学び

昭和三陸地震が遺した教訓は、いまも色あせません。揺れが小さくても大津波は来ること。海の備えは堤防だけに頼り切れないこと。そして、災害の記憶は時とともに薄れ、世代が変われば油断が戻ってくることです。

  • 揺れが弱くても、長い揺れや海沿いの地震では津波を警戒し、高台へ避難する
  • 防潮堤などの施設を過信せず、「逃げる」備えとあわせて考える
  • 過去の津波の記録や石碑を、世代を超えて語り継ぐ

この災害のあと、三陸では高台への集団移転や、津波の到達点に石碑を建てて子孫に警告を残す取り組みが広がりました。「ここより下に家を建てるな」。先人が刻んだその言葉は、78年後の東日本大震災で一部の集落を救っています。昭和三陸地震の犠牲は、形を変えて、いまを生きる私たちを守り続けているのです。

昭和三陸地震はいつ・どこで起きたのですか?

1933年(昭和8年)3月3日の午前2時30分ごろ、岩手県の沖合約200キロの三陸沖で発生しました。マグニチュードは8.1で、深夜に大津波が三陸沿岸を襲いました。

なぜ揺れが小さかったのに大津波が来たのですか?

海溝の外側で起こる「アウターライズ地震」だったためです。正断層型で海底が急に落ち込み、規模の割に大きな津波を生みました。揺れの大きさと津波の高さは必ずしも一致しません。

田老の防潮堤はなぜ「万里の長城」と呼ばれたのですか?

昭和三陸地震で壊滅した田老村が築いた、総延長2,433メートル・高さ10メートルのX字二重の堤防です。村を城壁のように囲うその姿から、こう呼ばれました。1960年のチリ地震津波では村を守りましたが、2011年の津波では一部が破壊されました。

まとめ|昭和三陸地震が遺した「揺れの大小で油断しない」

昭和三陸地震は、M8.1の地震が深夜に大津波を起こし、3,064人もの命を奪った災害でした。揺れは震度5ほどと穏やかだったのに、最大28.7メートルの波が三陸を襲う――アウターライズ地震の恐ろしさが、油断を最悪のかたちで突きました。田老村では人口の4割以上が犠牲になっています。

明治三陸からわずか37年での繰り返し、防潮堤に託した願いと、その後の歩み。この災害は、津波防災のすべての論点を含んでいます。揺れの大小で油断しないこと、施設を過信しないこと、記憶を語り継ぐこと。三陸の記事も、あわせてご覧ください。

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